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セントランドリー郡 (ルイジアナ州) : ミニ英和和英辞書
セントランドリー郡 (ルイジアナ州)[せんとらんどりーぐん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランドリー : [らんどりー]
 【名詞】 1. laundry 2. (n) laundry
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ぐん]
 【名詞】 1. country 2. district 
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

セントランドリー郡 (ルイジアナ州) : ウィキペディア日本語版
セントランドリー郡 (ルイジアナ州)[せんとらんどりーぐん]

セントランドリー郡()は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の中央部に位置するである。2010年国勢調査での人口は83,384人であり、2000年の87,700人から4.9%減少した〔Quickfacts.census.gov - St. Landry Parish - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地オペルーサス市(人口16,634人〔Quickfacts.census.gov - Opelousas - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の町でもある。州内でもクレオール文化とケイジャン文化の中心地である。
セントランドリー郡はオペルーサス小都市圏に属し、また人口60万人超のラファイエット・オペルーサス・モーガンシティ広域都市圏を構成している。
== 歴史 ==

=== フランスとスペインによる支配 ===
セントランドリー郡となった地域には少なくとも紀元前10,500年頃から人類が住んでいた。これは古代住居跡の発掘から推計されている。15世紀までに、アパルーサ族インディアンがアチャファライア川とサビーン川(テキサス州との州境)の間に入っていた。アパルーサ族は好戦的な部族であり、その領土を守るために他部族を餌食にしていた。
アパルーサ族の領土に入った最初のヨーロッパ人は、フランス人交易業者ミシェル・ド・ビロットだった。1690年に訪れアパルーサ族と交渉を行った。それから9年後の1699年、フランスはこの領土をルイジアナと名付け、アパルーサ族に占領されていた土地をオペルーサス領土と定義した。オペルーサス領土の南、アチャファライア川、メキシコ湾、バイユー・ネーピーケイで囲まれ、アタカパ族インディアン(東部アタカパ族)が占領していた土地は、アタカパ領土と名付けられた。
1720年、フランスは現在オペルーサス市がある場所のやや北にオペルーサス基地を設立した〔。そこは発展していく地域の主要な交易拠点になった。さらにフランスはアタカパス領土にアタカパス・ポスト(今日のセントマーティンビル近く)を設立した。フランスは開発を奨励するために兵士や開拓者に土地特許を与えた。開拓者の大半はフランスからの移民だった。伝説に拠れば、ジャン・ジョセフ・ルキントレックとジョセフ・ブレインペインが1740年代初期に地域に入ってきて、オペルーサス族インディアンとの交易で共同事業を始めたとされている。彼等は3人のアフリカ人奴隷を連れてきており、この地域に入った初めてのアフリカ人となった。
インディアンの中には開拓者に土地を売却した者もいた。東部アタカパ族酋長キネモが、1760年にバーミリオン川とバイユー・テシェの間の土地全てをフランス人ガブリエル・フージリエ・ド・ラ・クレールに売却した後、オペルーサス族がアタカパ族(東部アタカパ族)を掃滅した。
フランスは1762年にルイジアナとその領土をスペインに譲り渡した。スペインの統治下で、ルイジアナ南西部を統治する中心地としてオペルーサス・ポストが設立された。1769年にはオペルーサス・ポストに約100家族が住んでいた。1780年から1820年、アタカパ領土、ポイントクーピー領土、さらに東のアチャファライア川地域から新たな開拓者が入ってきた。ハイチすなわちサン=ドマングが奴隷と自由有色人種による革命で独立した後、フランス領西インド諸島からからの移民も加わってきた。新しい開拓者の大半はフランス人、スペイン人、フランス系クレオール人、スペイン系クレオール人、アフリカ人、およびアフリカ系アメリカ人だった。
アタカパ・ポストから来た移民には多くのアカディア人も含まれていた。これらアカディア人は、フランスが七年戦争(北アメリカではフレンチ・インディアン戦争)で敗北した後に、イギリスによって1763年にノバスコシアから追放され、移ってきたフランス人だった。その指導者はジャン=ジャック・ブレイズ・ダバディだった。ダバデイは1763年から1765年までルイジアナ領土の総督を務めた。1774年にフランス人の町でセントランドリー・カトリック教会が建設され、7世紀のパリ司教聖ランドリーに捧げられた〔Central Acadiana Gateway: Opelousas and St. Landry Parish, Louisiana State University-Eunice Office of Public Relations , accessed 27 April 2008〕。
1803年にアメリカ合衆国がルイジアナ領土を買収した後の1805年4月10日、オペルーサス・ポストはオペルーサスという町になり、セントランドリー郡の郡庁所在地になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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